「春高に出た」「強豪校でやってきた」。
そういう言葉を、誇らしげに、でもどこか苦しそうに語る選手を見たことはありませんか。
私は、プロアスリートや実業家、そして大学生たちと向き合う中で、ずっと引っかかっていることがあります。
それは、過去の記憶や肩書に依存して、今この瞬間を全力で生きていない人の存在です。
ローマ皇帝が、自分に言い聞かせていたこと
ストア派の哲人に、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスという人物がいます。
彼は自らへの覚え書き『自省録』の中で、こんな考えを繰り返し記しています。
あらゆるものは絶えず変化し続けている。自分自身もまた、その変化から逃れられない。過去の自分は、もう存在しない自分である、と。
2000年近く前に、すでに答えは出ていたのです。
過去の自分に固執することは、この変化という自然の流れに、ただ逆らっているだけなのかもしれません。
二極化するチームで、起きていること
現在、私が指導に関わっている神奈川大学女子バレーボール部でも、フィジカルとマインドの意識改革を進める中で、チームは着実に変化し、強くなっています。
しかしその一方で、「本気で上を目指す選手」と「そうではない選手」の二極化が進んできているのも、また事実です。
「急に上を目指すなんてバカバカしい」
「そんな練習をして何の意味があるんですか」
不平不満を口にし、あからさまにやる気のない態度を見せる。だけど、練習には休まずやって来る。
一体、彼女たちはなぜそこに居続けるのでしょうか。
なぜ、辞められないのか。科学が教えてくれること
ここから先は、事実の話をします。
なお、このパートは私自身の現場での観察と考察を多く含みます。その点はご了承ください。
スポーツ心理学には、「アスレティック・アイデンティティ・フォークロージャー」という言葉があります。もともとは心理学者エリク・エリクソンが1959年に提唱した「アイデンティティ・フォークロージャー」という概念が土台になっていて、のちに研究者ブリューワーらが、競技者を測定する尺度(AIMS)として整理しました。
簡単に言えば、こういうことです。
自分という人間を、ほとんど「競技者としての自分」だけで定義してしまっている状態。他の可能性を探る前に、「自分=この競技をやる人間」という一枚岩のアイデンティティが、早い段階で固まってしまうのです。
彼女たちが練習を辞めない最大の理由は、おそらくここにあります。15年以上続けてきたバレーボールが、もはや自分のアイデンティティそのものになっている。それが完全になくなることが、怖いのです。
「春高に出た」「強豪校でやってきた」という過去の成果がコンフォートゾーン(心地よい空間)になり、それを取り払ったときに「自分には何もないのではないか」と恐れている。
研究でも、競技だけに自己definitionを絞り込んでしまった選手ほど、引退や競技からの離脱のときに、大きな喪失感や不安を抱えやすいことがわかっています。
やる気のないまま居座り続けるのは、意志が弱いからではありません。アイデンティティを守るための、ごく自然な防衛反応なのです。
もうひとつの正体、「もったいない」という罠
もうひとつ、辞められない理由があります。
行動経済学でいう「サンクコスト効果」、日本語では「埋没費用の誤謬」と呼ばれるものです。
これまで注いできた時間や労力は、もう戻ってきません。冷静に考えれば、これから先の判断に関係ないはずのものです。それなのに人は、「ここまでやってきたのに、今さらやめるのはもったいない」と感じてしまう。心理学者のハル・アーキーズとキャサリン・ブルーマーが1985年に行った研究以来、これは繰り返し確認されてきた、人間の思考のクセです。
15年間のバレーボール人生。ここでやめたら、今までの15年が無駄になる気がする。
でも、本当にそうでしょうか。
冷徹な事実として、大学の授業期間中は週5〜6日、夕方から夜の貴重な時間の大半がバレーボールに費やされます。その膨大な時間を「文句」や「消化試合」として過ごすことこそ、本当にもったいないことだと、私は思います。
もし、ただの馴れ合いがしたい、自分の思い通りの練習だけをしたいのであれば、わざわざ体育会に所属する必要はありません。自分でサークルを立ち上げ、好きな仲間を集めてやればいい。
そのリスクや度胸すら持たないまま、用意された枠組みの中で不満を垂れ流し、貴重な時間をドブに捨てるような言動を続けるのは、あまりに自分自身に対して不誠実ではないでしょうか。
以前、武井壮さんが、スポーツでプロを目指す若者の甘えに対してこんな趣旨のことを話していました。それくらいの覚悟や努力量で迷うくらいなら、今すぐやめて別のことにリソースを割いたほうがいい。そのほうが、人生は成功する、と。
この言葉には、スポーツのリアルな厳しさと同時に、一人ひとりの人生に対する本質的な愛情が含まれていると、私は感じます。
辞めることは、「敗北」でも「逃げ」でもない
はっきり言っておきたいことがあります。
辞めることは、敗北でも、逃げでもありません。
バレーボール以外に夢中になれるものを探す。お金を貯めて海外へ飛び出す。新しいビジネスや学問に挑戦する。大学生活の4年間には、無限の選択肢と可能性があります。
過去の栄光にしがみついて今を消化するくらいなら、さっさと手放して新たな可能性にリソースを注ぐほうが、成功する確率は高く、人生は圧倒的に豊かになります。
まるで、着られなくなった昔のユニフォームを、サイズが合わなくなっても脱げずにいるようなものです。窮屈さを感じながらも、それが自分の一部だと思い込んで、脱ぐことを恐れている。
でも、ユニフォームは脱いでいい。脱いだからといって、それを着てきた日々が消えるわけではありません。
「過去、何をやっていたか」を聞かないと魅力が伝わらない大人たち
これは、決して学生だけの問題ではありません。
私はこれまで社会人として仕事をする中で、過去の栄光にすがって生きている大人を、たくさん目にしてきました。
「自分とは何者か」を問われたときに、何年も前の実績や肩書を引っ張り出してこなければ語れない姿は、どこか寂しさを感じさせます。
「過去に何をやっていたんですか」と尋ねてみないと魅力が伝わらない人よりも、「今、こんな夢や目標があって夢中なんです」と目を輝かせながら語る人のほうが、100倍魅力的に映ります。
今この瞬間を全力で生きている人、目標に向かって突き進んでいる人の前では、過去の実績なんてどうでもよくなります。付き合っていく中で「へえ、昔そんなこともやってたんですね」と後から知るくらいが、一番格好いいのです。
世の中はいまだに「過去の成果」や「肩書」という分かりやすい記号で、人を評価しがちです。
しかし、他人の評価軸に自分の人生を合わせる必要はありません。大切なのは、自分自身が今、この瞬間に命を燃やしているかどうかです。
今この瞬間から、未来へリソースを注ぐ
過去の栄光を捨てられない人は、「過去の自分」に評価の基準を置いています。
一方で、今輝いている人は、「未来の自分」に目を向けています。
もし今、あなたが何かに不満を抱えながらも惰性で続けているのなら、一度立ち止まって、自分に問いかけてみてください。
「自分は今、本当にエネルギーを注ぐべき場所に、リソースを使えているだろうか」
バレーボールを続けるなら、過去の成果は一旦横に置いて、覚悟を持って「今」のコートに全力を注ぐ。
もしそうでないなら、これまでの感謝とともに過去を綺麗に手放し、次のステージへ一歩踏み出す。
マルクス・アウレリウスが2000年前に見抜いていたように、あなたはすでに、あの頃のあなたではありません。
過去の自分を超えていく覚悟を持った人だけが、本当の意味での「豊かな人生」と、心身の余裕(Yoyuu)を手に入れることができるのです。