「毎日ストレッチしてるのに、全然柔らかくならないんです」
トレーナーをしていると、こういう相談を、本当によく受けます。
今日は、なぜ座り続けるとハムストリングスが硬くなるのか、そして、なぜストレッチだけでは解決しないのかを、じっくり解剖してみます。
なぜ、座るとハムストリングスは硬くなるのか
ハムストリングスは、太ももの裏側にある筋肉です。歩く、走る、ジャンプする。あらゆる動作の中で、伸びたり縮んだりを繰り返しています。
ところが、椅子に座っている間、この「伸び縮み」が、ほとんど起きなくなります。
同じ角度で、同じ姿勢のまま、何時間も固まっている。筋肉は、使われない状態が続くと、柔軟性を失っていきます。血流も滞り、緊張がじわじわと蓄積していきます。
しかも、多くの人は、座っているとき、膝を内側に曲げがちです。脚を組む姿勢も、まさにこれです。片方の股関節を内側にひねりながら、膝を内側に入れる。無意識にやってしまう、あの動作です。この姿勢は、ハムストリングスに余計な張りを生み、硬さをさらに助長します。
硬くなった筋肉は、周囲の骨や筋肉を、内側に引っ張り込む性質を持っています。ハムストリングスが硬くなれば、骨盤が引っ張られ、少しずつ後傾していく。猫背や巻き肩にもつながり、結果として、疲れやすい身体が出来上がります。
現代人は、座りすぎている
これは、精神論でも、感覚の話でもありません。
世界保健機関は、2020年のガイドラインで、初めて「座りすぎ」そのものが健康を害すると、正式に明記しました。心臓病、がん、2型糖尿病のリスクを高める、と。
オーストラリアで行われた22万人規模の調査では、1日の座位時間が4時間未満の人と比べて、11時間以上座っている人は、死亡リスクが40%も高くなることが報告されています。
日本人を対象にした研究でも、座位時間が8時間を超えると死亡リスクが15%、11時間を超えると40%高まるというデータがあります。
リモートワークの普及で、この状況は、さらに悪化しています。移動という、わずかな運動機会すら失われ、朝から晩まで、椅子に座りっぱなしという人も、珍しくありません。
現代人は、歴史上、最も座っている生き物なのかもしれません。
ストレッチの誤解
ここで、はっきり言いたいことがあります。
ハムストリングスが硬くなったのは、ストレッチを怠ったからではありません。
断言します。
これは、普段の運動パターンの積み重ねによって、作られたものです。1日8時間、10時間と、同じ姿勢を取り続けている。その蓄積が、硬さの正体です。
それなのに、多くの人は、「ストレッチが足りないからだ」と考え、寝る前の数分間だけ、ストレッチをして満足します。
これ、例えるなら、蛇口を全開にしたまま、あふれた床の水を、雑巾で拭き続けているようなものです。
拭いても拭いても、蛇口が開いたままなら、床は永遠に濡れ続けます。
日中の8時間、10時間という「原因」を放置したまま、寝る前の5分間という「対症療法」だけで、なんとかしようとする。これでは、いつまで経っても、根本的な解決にはなりません。
もちろん、ストレッチ自体に効果がないわけではありません。国内の研究では、4週間の静的ストレッチを継続することで、ハムストリングスの硬さの指標が、実際に有意に減少することが確認されています。ストレッチは、無意味ではないのです。
でも、それはあくまで、蛇口を閉めた上での話です。
それでも、人は放置する
ここまで、身体のメカニズムの話をしてきました。
でも、正直に言うと、原因はもうひとつあると思っています。それも、かなり大きな原因です。
硬くても、日常生活に、大して困らないから。
これに尽きます。
正座がしにくい。前屈で床に手がつかない。それくらいのことは、生きていく上で、致命的な問題にはなりません。歩けるし、座れるし、仕事もできる。誰も、困っていないふりをする必要すらありません。本当に、困っていないのです。
痛みや、明らかな不自由がない限り、人は行動を変えません。これは、意志が弱いからではなく、ある意味、極めて合理的な判断です。
健康行動の研究には、「ヘルスビリーフモデル」という考え方があります。人が健康のための行動を起こすかどうかは、その問題をどれだけ深刻で、自分に関係のあることだと感じられるかに、大きく左右される、という理論です。
ハムストリングスの硬さは、多くの場合、痛みという形で表面化しません。だから、深刻さを感じにくい。深刻さを感じない限り、人は、蛇口を閉めようとはしないのです。
将来、腰や膝を痛めてから、ようやく重い腰を上げる。これも、あるあるだと思います。困ってから直すのではなく、困る前に直す。言うは易しですが、これができる人は、正直、多くありません。
根本的な解決策は、日常生活の見直し
では、蛇口を閉めるとは、具体的にどういうことでしょうか。
1時間に1回、立ち上がる。
これだけで、座りっぱなしによる血流の停滞や、筋肉の固定化を、大きく防ぐことができます。難しいことをする必要はありません。トイレに行く、水を飲みに行く、それだけでも構いません。
座る姿勢そのものを見直す。
膝を内側に曲げる癖がある人は、まずそこから直しましょう。骨盤が立った状態を意識するだけでも、ハムストリングスにかかる余計な緊張は、かなり減ります。
移動を、意図的に増やす。
リモートワークで失われた「移動」という運動機会を、意識して作り直す。エレベーターではなく階段を使う。一駅分歩く。小さな積み重ねが、日中の総座位時間を、確実に減らしていきます。
ストレッチは、「量」で押し切る発想を捨てる。
寝る前の5分間だけを頑張るのではなく、日中、こまめに、短い時間で複数回に分けて身体を動かす。これは、まとめて量を確保するより、はるかに効果的です。
結局のところ、ハムストリングスの硬さと向き合うということは、寝る前の5分間と向き合うことではありません。日中の8時間、10時間という、生活習慣そのものと向き合うことなのです。
参考文献・データ出典
- Rosenstock, I. M. (1966). Why people use health services. The Milbank Memorial Fund Quarterly, 44(3), 94–127.
- World Health Organization (2020). WHO Guidelines on Physical Activity and Sedentary Behaviour.
- van der Ploeg, H. P., et al. (2012). Sitting time and all-cause mortality risk in 222,497 Australian adults. Archives of Internal Medicine, 172(6), 494–500.
- 国立研究開発法人国立がん研究センター「多目的コホート研究」職業性座位時間と死亡との関連に関する報告
- 日本理学療法士協会「ハムストリングスを構成する個々の筋肉に対する4週間の静的ストレッチングプログラムの効果」(せん断波エラストグラフィによる筋硬度評価研究)