なぜ、日本記録は何十年も破られないのか。強さの正体は、「総合点」だった。

こんな数字を、まず見てほしいと思います。

男子三段跳、17m15。山下訓史選手が1986年に打ち立てた記録です。

男子やり投、87m60。溝口和洋選手が1989年に打ち立てた記録です。

どちらも、2026年現在、日本記録として現役です。

前者は40年、後者は37年。誰にも破られていない記録です。


「絶対値」で見るということ

当時の時代背景を考慮する必要はありません。今回追いたいのは、あくまで公式の日本記録という絶対値です。

この30数年で、スポーツ科学は劇的に進歩しました。栄養学の知見は増え、サプリメントはコンビニで手に入るようになり、トレーニング理論は世界中の論文にアクセスするだけで学べるようになりました。動作解析、映像分析、遺伝子検査。昔の選手たちが喉から手が出るほど欲しかったであろう情報や道具が、今は誰の手にもあります。

それなのに、記録は破られていない。

これは、単なる偶然でしょうか。私は、そうは思いません。


強さの正体は、「総合点」である

強い選手、勝つ選手というのは、結局のところ「総合点」が高い選手だと、私は考えています。

トレーニングのフォーム。トレーニング内容。栄養。競技スキル。道具。気候などの環境。コンディション。マインドセット。体組成。対人競技なら相手との組み合わせや順番。睡眠。リカバリー。精神的な動き。心肺機能。水分量。IQの高さ。身体や競技に関する知識。教養。所作。引き出しの多さ。レジリエンス。反応速度。敏捷性。

まだまだ、たくさんあります。

強さというのは、これだけ多くの要素の掛け合わせで、はじめて成立するものです。

だからこそ、「これさえやれば勝てる」という単一の答えは、存在しません。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、『形而上学』の中で、全体というのは、単なる部分の寄せ集めではなく、部分同士の関係性によって、部分の総和以上の何かになる、という趣旨のことを述べています。

強さもまた、同じです。栄養、技術、メンタル、環境。それぞれの要素を単体で足し合わせたものではなく、それらが絡み合うことで生まれる、もっと複雑な何かなのです。


お菓子が主食のライバルに、勝てなかった話

ここで、私自身の実体験をお話しします。

私はかつて、ショートトラックという競技をしていました。

どれだけトレーニングをしても、どれだけ練習をしても、どれだけ食事に気を遣っても、勝てないライバルがいました。

彼は、お菓子が主食なのかと思うくらい、お菓子ばかり食べていました。

結局、私はスケート人生で、彼に一度も勝てませんでした。

「栄養がすべてだ。身体をつくっているのは食べ物なんだから、食べているものが最重要項目だ」

そう主張する人は、少なくありません。しかし、それも、たくさんある要素のうちのひとつに過ぎないのです。

私はこれまで、たくさんのトップアスリートを見てきました。偏食で野菜を食べない選手。魚を食べない選手。肉しか食べていない選手。それでも普通に、日本一を獲っていました。

もちろん、栄養という要素に一生懸命取り組めば、多少はプラスに働くでしょう。「オレはここまでやった」という精神的な支えにもなるはずです。栄養素を不足なく摂りきれる可能性も、多少は高くなるでしょう。

しかし、それだけで勝負が決まるほど、単純な話ではないのです。

もし栄養がそこまで重要な要素だったら、冒頭の記録が、今日まで破られていないのはおかしい。これだけサプリメントや健康補助食品で、手軽に栄養素が摂れる時代であるにもかかわらず、いまだ記録が破られないというのは、そういうことなのだと思います。


目を閉じて、ストップウォッチを握っていた選手

もうひとつ、忘れられない記憶があります。記憶が正しければの話ですが。

私が小学生の頃、長野オリンピックの特集か何かのテレビ番組で見た映像です。

1994年リレハンメルオリンピック、スピードスケート男子500mで銅メダルを獲得した堀井学さんが、ひたすら目を閉じて、片手にストップウォッチを持ちながら、イメージトレーニングをしている姿でした。

外側から見れば、ただ座って目を閉じているだけです。地味で、テレビ映えもしない光景です。でも、あの姿こそが、「内側に向き合う」ということの、もっともわかりやすい形だったのだと、今になって思います。

これは、単なる精神論ではありません。

イメージトレーニング、いわゆるメンタルプラクティスには、しっかりとした科学的な裏付けがあります。頭の中で動作を鮮明にイメージすることで、脳と筋肉をつなぐ運動神経路が、実際に身体を動かしたときと近い形で活性化することが、複数の研究でわかっています。1995年に発表された、経頭蓋磁気刺激(TMS)という手法を用いた研究では、新しい動作を身につける過程において、イメージトレーニングを行った被験者の脳の中で、実際の練習に近い変化が起きていたことが確認されています。

つまり堀井さんは、目を閉じてストップウォッチを握りながら、脳の中で、本当にレースを滑っていたのかもしれません。

外部から与えられる情報や道具が、まだ限られていた時代です。トップ選手たちは、自分の内側にある感覚と、徹底的に向き合うしかありませんでした。今の私たちが忘れかけている「内側に目を向ける力」は、あの頃の選手たちの中に、すでにあったのだと思います。


なぜ、これだけ進化しても、記録が破られないのか

ここからは、私なりの考察です。

私の見立てでは、外部へのアクセスが容易になったことで、答えや正解、思考のすべてを、自分の外に求めるようになったことが、大きな要因のひとつではないかと思っています。

昔は、外部ではなく、自分で考えるしかありませんでした。だからこそ、自分の可能性を、自分自身で信じるしかなかったのです。

心理学には、「統制の所在(Locus of Control)」という考え方があります。心理学者ジュリアン・ロッターが提唱した概念で、人生の出来事の結果を、自分自身の行動に起因すると考えるか(内的統制)、運や環境、他人といった外部の力に起因すると考えるか(外的統制)という、その人の傾向を表すものです。

そして、興味深い研究があります。アメリカの心理学者ジーン・トウェンギらが2004年に発表したメタ分析研究です。1960年代から2002年にかけての大学生を対象にした複数の研究を横断的に分析したところ、時代が進むにつれて、学生たちの統制の所在が、より「外的」な方向へとシフトしていることがわかったのです。

つまり、時代が進むほど、人は「自分の力で結果を変えられる」という感覚を、少しずつ失ってきているのかもしれない、ということです。

情報が少なかった時代は、自分の頭で考え、自分の身体で試し、自分の力で答えを掴むしかありませんでした。しかし今は、検索すれば、答えらしきものがいくらでも出てきます。誰かの成功法則、誰かのルーティン、誰かのメニュー。

その結果として、皮肉なことに、自己効力感や自己肯定感、自己研鑽、自己鍛錬、自己成長といった「自己〇〇」の力が、今の時代は少なくなっているのではないか。私はそう考えています。


だから、プラマイゼロになる

外部からの情報や道具、栄養学やスポーツ科学の進歩は、間違いなくプラスに働きます。

しかし、それと同時に、「自分の外に答えを探す」という姿勢が、内側の力を静かに弱らせているのだとしたら。

結果として、全体としては、プラスマイナスゼロになってしまうのではないか、というのが私の考察です。

だとすれば、答えはシンプルです。

自己効力感を高めれば、成果や結果は自ずとついてくる。パフォーマンスは、自然と上がっていくはずです。


影響力のある掛け算要素を、見極める

ここまでの話をまとめると、こんな公式ができると思っています。

「メンタル・マインド(脳や心・精神面)」×「フィジカル」×「スキル」+「時代の進化に伴う要素(道具・情報・科学)」

強さというのは、この掛け算と足し算の結果です。

そして、多くの人が見落としているのは、「時代の進化に伴う要素」に、時間と労力をかけすぎているということです。

もっと影響力のある、掛け算の要素に目を向けるべきなのに、足し算にしかならない要素の勉強や情報収集に、貴重な時間を使ってしまっている。

アスリートとして本当にやるべきなのは、影響力のある掛け算要素をどれだけ実行できるかを、俯瞰して見極めることです。そして、自分自身のボトルネックが、一体どこにあるのかを見つけ出すことです。

自分の外に、正解はありません。それを探すこと自体が、ナンセンスなのです。

そんなことをしている間にも、アスリートにとって最大の敵である「選手としての寿命」は、確実に近づいてきます。

35年間破られていない記録を作った選手たちは、きっと、外にではなく、自分の内側に、答えを探し続けた人たちだったのだと、私は思います。


参考文献・データ出典

  • 日本陸上競技連盟公式サイト「日本記録」(2026年7月2日時点) https://www.jaaf.or.jp/record/japan/
  • Aristotle, Metaphysics, Book VIII(『形而上学』第8巻/全体は部分の総和以上のものであるとする「創発」の思想)
  • Rotter, J. B. (1966). Generalized expectancies for internal versus external control of reinforcement. Psychological Monographs: General and Applied, 80(1), 1–28.
  • Twenge, J. M., Zhang, L., & Im, C. (2004). It’s beyond my control: A cross-temporal meta-analysis of increasing externality in locus of control, 1960–2002. Personality and Social Psychology Review, 8(3), 308–319.
  • Pascual-Leone, A., Nguyet, D., Cohen, L. G., Brasil-Neto, J. P., Cammarota, A., & Hallett, M. (1995). Modulation of muscle responses evoked by transcranial magnetic stimulation during the acquisition of new fine motor skills. Journal of Neurophysiology, 74(3), 1037–1045.

この記事を書いた人

北原 良祐